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第16回釣鐘草から聞こえる「うつくしい音」に耳を傾ける人、子どものちらっと見せる「うつくしさ」に心をふくらませる人

私たちは、姿・形・色・音などが整っていて鮮やかで快く感じられるとき、《美しい》と言ったり《きれい》と言ったりする。《美しい》も《きれい》もほとんど区別することなく、同じように言いあらわすことが多いのだが、感じ方に大差はないのだろうか。「美しい花」は「きれいな花」であって、「美しい雲」は「きれいな雲」なのだろうか。
音楽会に行って「美しい演奏だった」と感想をもらすときがあれば、「きれいな演奏だった」と思うときもある。どこかが違うように思うのだが、どうなのだろう。
こういうときは辞書にあたってみることだ。すると、《きれい》は「心地よい充足感や満足感を感じること」で、《美しい》には「心を奪われるような感動」や「いつまでも見ていたり聞いていたりしたいと思うような感動」があると書かれている。
《きれい》はその「表面的な美」をたたえるが、《美しい》は「心に染み入ってくるような美」を指すと述べる辞書もあり、「美しい友情」と言うが「きれいな友情」とは言わないと、2つの言葉の守備範囲についてふれる辞書もある。
第14代酒井田柿右衛門さんは「どのような陶芸を目指しますか」と問われて、「きれいなものではなく美しいものです」と述べている(『ロータリーの友』平成23年2月号)。
―――きれいは悪いことではありません。ただ、飾られたというか、取り去られたというか。不純物がなくなると、確かにきれいになりますが、味がないじゃないですか。美しいというのは、素顔といいますか、そのままといいますか、日本人だけが持ち合わせている美意識といえばわかっていただけますでしょうか、素顔が出てくる作品を残したいと思っています。
柿右衛門さんにとって、《きれい》か《美しい》は「味がある」かどうか、「素顔が出ている」かどうかで決められる。「味があって素顔の出た美しいもの」はいつまでも見ていたい、聞いていたいと心が奪われていくということだろう。

星野富弘さんは体育の中学教師になって2か月が経ったある日、器械体操の指導をしていて不慮の事故に遭遇した。頸髄を損傷して手足の自由を失い、口に筆をくわえて草花を描き、詩をつづって語る活動を始めた。
その詩画は私たちの心にしみわたる。「心が迷う時、そっと取りだしてみる本です」「私の人生の中で一番厚く、大きな本でした」といった感想がたくさん寄せられている。
『あなたの手のひら』(偕成社)を手にすると、そこには「釣鐘草」に寄せた詩がある。
むかし人は うつくしい音が 聞きたくて 鐘を作った
すると鐘は 花のかたちになった

ベッドに伏しながら釣鐘草を間近に見つめると、見れば見るほど釣鐘に似ている。どうして、釣鐘そっくりの花を咲かせているのだろう。星野さんは思いをめぐらせて短い物語をつくった。
―――ずっとむかし、人びとは「うつくしい音」に耳を傾けて心を癒していた。鐘を造って撞いてみると、その音色ははるか遠くまで響きわたっていく。うっとりと耳を澄まして、心をなごませる村人であった。
幸せそうな村人の表情をかいまみた釣鐘は、そのとき「花になろう」と決めた。私を撞く音で心がやすらぐのであれば、あちらこちらの草むらに咲いて、私を見つめる人びとに「うつくしい音」を聞かせてあげたい。
花のかたちに身を変え、山の向こうの人びとにも「うつくしい音」を届ける釣鐘草である。―――
星野さんの『風の旅』(学習研究社)には、次のような詩もある。
花は 自分の美しさを 知らないから美しいのだろうか
知っているから 美しく咲けるの だろうか

ほんとうにどちらなのだろう。一つひとつの花に問いかけてみたくなる。

「美しい」と感じるとき、私たちの内面には何が起きているのだろう。塗師の赤木さんは漆器づくりに努めてきた半生を顧みて、「ひとつの物語が生まれる場所に、ひとつの『美しい』があるのではないかと述べる。
つまり、物語というのは「何かと何か」が出会って「震動」が生まれ「さざ波」となって生まれるのだが、その誕生の現場にいつも立ち会っているのが「美しい」である。「喜びであれ、悲しみであれ、もっとささやかなものであれ、人の心をふるわせる物語とともに『美しい』は生まれ、現われて、形になったものはまた何かと出会い、別の物語を生み出していく」と赤木さんは語る(『美しいこと』新潮社)。
「美しい」には「欠落感や孤独感、敗北感」が関係していると指摘するのは、作家の橋本治さんである(『人はなぜ「美しい」がわかるのか』ちくま新書)。
つまり、「美しい」という感情の根っこには「憧れ」があって、その「憧れ」は「憧れているそれ」が自分には無いから生まれている。ある光景や人の立ち居ふるまいに接して「美しい」と感じるとき、私たちはあまりにも見事なそのことに打ちのめされていて、自分が人間としていかに小さいか痛く感じ入っている。けっして幸福の絶頂をきわめて「美しい」と思うのではないということである。
こうして一つひとつの指摘に接すると、「美しい」と感じ入るときの私の状況が見えてきて、すっきりするようでも得体の知れない領域に身を置くようで、実は「余りの見事さ」に打ちのめされていて、自分が人間としていかに小さいか痛く感じ入っている。何とも不思議な思いになる。

齋藤喜博さんは『君の可能性』(筑摩書房)で、八木重吉の詩「美しくあるく」を紹介する。

美しくあるく
こどもが
せっせっ せっせっ とあるく
すこしきたなくあるく
そのくせ
ときどきちらっとうつくしくなる

「どんなにみにくいと思い、いやらしいと思う人のなかからも、ときどき『ちらっと』みせる、美しいもののみえる人間になりたいものである」と、斎藤さんは述べて、次のようにつづけて語る。
―――そういう美しいものに感動し、自分の心をふくらませていける人間になりたいものである。そうなったとき、もっと人と人は暖かく心をかよわせていくことができるにちがいないし、どの人も自分の持っている美しいものをみせるようになるにちがいない。
釣鐘草から聞こえる「うつくしい音」に耳を傾ける人。子どものちらっと見せる「うつくしさ」に心をふくらませる人。そういう人は、自分の中に欠けているものを自覚していて、その「欠落」を補って心ゆたかな人間に成長したいと望んでいる。「憧れ」をいだく人は様ざまなところで「美しい」と出あって、心の糧にしている。