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第5回「学ぶ」とは「食べる」こと?

「学ぶ」って、どういうことでしょう。別の動詞に置き換えてみましょう。
「教育方法」の授業の初めに、そう問いかけると「覚える・分かる・考える・習う・勉強する」といった動詞が挙げられます。
これまで受けてきた授業をふりかえってみると、おおかたの学生には「教える」は「一定の知識や技術を伝えること」であって、「学ぶ」は「伝えられた知識や技術を覚えること」と言い換えられるようです。
しかし、林竹二さんは「学ぶということは、覚え込むこととは全くちがったことだ。学ぶとは、いつでも、何かがはじまることで、終わることのない過程に一歩ふみこむことである」と指摘します(『教えるということ』国土社)。
宮城教育大学の学長であった当時、林さんは全国の小中高等学校に出向いて「人間について」などをテーマに授業を行いました。そして、子どもが書き記した感想を紹介しながら、「学ぶ」と「教える」について考察を重ねました。
例えば、「私は勉強していてどこでおわるのか心配になってきたほどだ。私は一つのことをもっともっとと、深くなっていく考えかたがこんなにたのしいものかとびっくりした」(5年生)というような感想が書き記されます。
「学び」の扉がひらかれて、どこに終着点があるのか予想のできない道を歩みはじめる。そのとき内面に生じるとまどいと弾むこころが、この感想にはういういしく書かれています。
上田薫さんは戦後間もないころから、静岡市立安東小学校を拠点にして、新しい社会科授業の創造に力を注いできました。その著書『人間の生きている授業』(黎明書房)には、「学ぶということは、人と同じになることではない。より深く人と異なることなのである」と書かれています。
教科書に書かれていることや説明されたことを正確に覚え、誰彼と同じ回答ができるように努める。「学ぶ」は、そういう味気無い作業をいうのではないのです。

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皆さんは、これまで数限りない回数の授業を受けてきました。その中には、今でもありありと思い起こすことのできる授業が1つや2つはあるでしょう。教師を目ざそうと思うようになった授業もあるにちがいありません。
「忘れ去れない授業」というのは、忘れ去った他の多くの授業と、どこがどう違っていたのでしょうか。その教室には、いつもと違う《うねり》が起き、その《うねり》は一人ひとりの子どもの内面にも押し寄せ、ふだんとは異なる《空気》が教室をつつみこんでいたにちがいないのです。
どうして、その教室に《うねり》が押し寄せることになったか。《うねり》の渦中に身をおいて、そのとき何を感じていたか―――。地引き網で魚をたぐり寄せるように、学生の内奥に沈んでいる「そのとき」をたぐり寄せるならば、授業の実相に迫ることができる。 私はそう考えて、「学ぶ」からつながりひろがる動詞を挙げさせ、イメージマップをつくらせます。すると、学生のノートに書かれる動詞は、4月当初の出来合いのものから、内面をまさぐってかき集められた動詞に変わってきていることが分かります。
一見すると、どうしてそれが「学ぶ」につながるのか、ふつうならば結びつくはずがないであろう動詞も挙げられています。ある年、机間巡視をしていると、「学ぶ」から矢印が「まあるくなる」につなげられていて、思わず笑みがこぼれました。
「学んでいる」という実感につつまれると、風船がふくらんでいくように、私自身もまあるくなっていく。そのような感覚を味わったことが、私にもあるからです。

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今年は「学ぶ→食べる」とつなげた学生がいて、教室はざわめきました。「何かを学んでいるときは、おいしい料理を食べるときと似ている感じがするからだ」と、学生はその理由を述べます。
授業後に書かれた感想を読むと、この指摘に触発されたものがいくつもありました。たとえばAさんは、小学時代を思い起こして、次のように書き記します。
《「学ぶ」とは「食べる」。その通りだと私も思います。私は小学4年生の時、給食が楽しみなのと同じくらい、算数の授業が楽しみで学校へ行っていました。当時、計算が好きだった私は、給食に負けないくらい算数を食べて、力をもっともっとつけたかったのかもしれません。ご飯を食べてることの喜びと同じくらい、私は算数を食べることの喜びを味わっていたのだと思います。》
辞書によれば、「食べる」とは「固形の食べ物をかんで飲み込む」ことですが、Aさんは給食と同じくらい「算数を食べる」ことが楽しみで、学校に通っていた。そういう子どもであったことに気づかされたのです。
掛け算とか分数の割り算といった、それまで食したことのない「数の世界」をかみ砕き、よくこなれたら飲み込んで、自分の力として蓄える。何かを学んでいるとき、私たちは食べるときと似た、知的ないとなみをしているようです。
Bさんは述べます。《学ぶということについて、「食べる」と答えた人がいました。これは私にはない発想で、驚きました。子どもは、食べ物も知識もモグモグと食べて、すべてを吸収して成長していくのだなと改めて感じました。そんな知識をおいしく料理して、子どもたちの前に出せる教師になりたいと思いました。》
子どもは授業の中で、新しい知識をモグモグモグモグ食べ、その栄養分をたっぷりと摂取して、人間としての成長を遂げていくのです。そうであるならば、教師には、食指が動いてむずむずするような料理(授業)をつくる責任があります。Bさんはそのように考えるのです。
ところで、《「学ぶ→食べる」では弱い。「学ぶ→むさぼる」だ》と主張する学生Cもいました。
《1つだけ後から思い浮かんだのが、学ぶについて「むさぼる」です。「食べる」と考えは近いのですが、「食べる」よりも「むさぼる」の方が、よりがっついていると思います。「食べる」だと優しいイメージですが、「むさぼる」だと、好きなことや新しいことには、もっと貪欲な感じがして、学ぶに近いと思いました。》
私たちは腹が減ってしかたのないとき、食べられるものがあれば何でも口にします。いつもなら食べ残すような部分まで、がつがつぱくついて、むさぼり食って空腹感を取り除きます。
それと同じように、「学ぶ」は納得ゆくまで知り尽くしたいと思って、その対象に食らいつく「貪欲さ」をはらんでいるということでしょう。であるならば、好きな教科の授業の場合はもちろんですが、難しくて付いていけない授業や興味のそそられない授業の場合にも、よくかみ砕いて飲み込もうと努める心構えが欠かせないということになります。

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大学に入学してから実際に体験した次のようなことを紹介して、「学ぶ→食べる」を補強する学生Dもいます。
《私は、大学に入学してしばらくするまで、なすびが食べられなかった。食わず嫌いだったのかもしれない。でも、嫌いだと思うから、自分から手を伸ばすこともなかった。食べなさいと言われても、決して口にはしなかった。しかし、私がなすび嫌いなことを知らない先輩が、なすびを使った手料理をごちそうしてくれた。「なすびは嫌い」と言うことができず、恐る恐る口にしたことをきっかけに、私はなすび嫌いを克服した。自分の中の、大きな変化だった。
これは、勉強にも当てはまる。イヤイヤ食べたっておいしくない。つまりは、イヤイヤ勉強したって学べないし、イヤイヤ教壇に立ったって教えることはできないのだと思った。自分の中の「イヤだな」という気持ちを打ち破ることで、新しい味に出会える。どうせ食べるならおいしく食べたいし、また食べたいなと思いたい。勉強だって同じだと感じた。》 以上、4名の感想を紹介しました。こうしてみると、「学ぶ→食べる」という一つの連想が学生のからだの中を駆け巡り、「学ぶ」という鉱脈のある地層を掘り起こすきっかけになったことが知られます。
書店に並ぶ教育書には、「学ぶ」や「学習」について学問的な説明がされています。それらの説明をよく読んで、理解に努めることは必要です。
しかし、「子どもが深く学ぶ授業」をつくろうと努める段になったとき、教師を内面で支えることになるのは何か、それは、自身のからだとこころに刻まれた記憶をたぐり寄せてつかんだ《実感をふまえた認識》、つまり、例えば「学ぶ→食べる」や「学ぶ→まあるくなる」ではないかと思われます。