真似をすること

9月に入りました。夜になると秋の虫の声が聞こえて、中秋の名月ももうすぐです。5歳になる息子は、今月末に迫った運動会に向けて、ダンスやパラバルーンや縄跳びの総仕上げに張り切っています。

通っている保育園は縄跳びに力を入れているのですが、どうやら息子はあまり得意ではない様子。どうなったかなと久しぶりに見せてもらうと、これがなかなかの上達具合で、「前まわし跳びが15回できるよ」と嬉しそうに跳んでくれました。

pic1

「今度は20回を目指したい!」。そういうので、じゃあどうしたらいいかなと一緒に考えることにしました。聞くところによると、保育園で一番上手なA君は90回も跳べるそうなのです。それはすごいなぁといいながら、「縄の回し方はどうだろう?もう少し脇をしめてみるといいんじゃない?」と提案し、実際に脇をしめた感じで跳んで見せました。

そうすると息子は、それをじっと見てこういいました。「A君の脇はそんなにしまっていないよ。三角形ぐらいになってるんだよね」。へー、そうなんだといいながら、続けて「回し方が上手になると縄がヒュンヒュンいうよね」と、再びやってみます。すると今度は「うーんとね、A君の縄はね、もっと早く回るよ。音ももっとすごいから」と返してきました。

たわいもないやり取りです。でもすこし上達の理由がわかったような気がしました。息子は「上手なお友達=真似るべき対象」を見つけています。そして、脇のかたちや縄の音にも気づいている。つまり、息子のなかにそれなりの「見る目」が育っているわけです。もちろんその背景には、保育園の先生方のサポートがあったはずですが、そこに「真似する力」、「見て学ぶ力」が感じられて、余計なことをいわなくても縄跳びはもう大丈夫だなと安心したのでした。

子育て歴はまだ5年とすこしですが、ここまで、子どもの真似する力に繰り返し驚かされてきました。たしか3歳になったばかりの頃のこと、ブロックで遊んでいた息子が急に立ち上がり冷蔵庫の扉を黙って開けたことがあります。なにをするのかみていると、くるりと冷蔵庫に背を向け、扉をおしりでドンと閉め、何事もなかったかのようにまたブロック遊びに戻っていったのでした。

冷蔵庫の扉をおしりで閉める。それはそのまま、数分前の私の姿でした。息子はブロックに集中していたはずなのです。でも実はしっかりと見ている。そして自分でもやってみる。子どもはすごい。とても印象的で、そのときのことをずっと覚えています。

短大の授業では、そんな話も織り交ぜながら「真似をすること」という話をします。子どもの能力の話ではなく、私たちにとっても大切な「学び方」の話です。そうすると、「真似は良くないことだと思っていました」というコメントが必ず出てくるのですが、そんなことはありません。他人のものを丸写ししたレポートはもちろんダメですが、「真似をする」とはそういう話ではないのです。

例えば、ひらがなを学び始めたとき、お手本を見て書いたり、なぞってみたり、書かれたものを見ながら繰り返し練習します。そうして次第に自分なりの文字が書けるようになっていく。文字そのものを覚えるときもそうですし、文字の美しさを身に付けるときも同じです。まずは真似る。上手な人を見つけてそのやり方を真似る。真似るためにはよく見ることになります。そうして「見る目」が磨かれていく。「見て学ぶ力」が身に付いていく。それが大事なのだと思います。

「学ぶ」という言葉の語源は「まねぶ」である、そういわれるように、「真似をすること」、「見て学ぶこと」はどんな仕事においても大切な「学びの方法」です。歴史を振り返っても、親の背中を見ながら家業を学んだり、師弟関係を結んで師匠を見習ったり、「真似をすること」、「見て学ぶこと」は長い間ずっと重要な教育の方法でした。

そんな「真似をすること」ですが、それは「なってみること」でもあります。そう考えて、私も実際にやってみるのですが、これがじつに難しい。外側から眺めるだけでなく、対象の内側に入り込み、その人になってみる。想像力を働かせ、五感を総動員してなってみる。身を重ねて、その人になってやってみる。その人が見ているものを見ようとする。考えていることを考えようとする・・・。「真似をすること」、それは誰にでもできることなのですが、追求していくとなかなかけっこう奥深い学びの方法だと考えています。

(川口陽徳)