『カレの名は。』

ichimaru

「ワタシの父は40歳です。カレは医師です。」

「ワタシの母は34歳です。カノジョは看護師です。」

ふ~ん。ありがちなカップルだよね。手近な「レンアイ」のち「ケッコン」ってやつね。そういえば、知り合いの若いお医者さんも看護師のカノジョと一緒に暮らしてたっけ。ランチはいつものコンビニで。ライト感覚。コンビニ・ラブ。

今から遡(さかのぼ)ることおよそ半世紀も前のこと、『同棲時代』(上村一夫:双葉社、1972年)というタイトルの漫画が流行(はや)りました。その翌年には『神田川』(南こうせつとかぐや姫:日本クラウン、1973年)という、若く貧しい男女の生活(くらし)を描いたフォークソングが大ヒット。三畳一間のアパートから銭湯に通い、いつも先に出て待つ彼女。その「洗い髪が芯まで冷えて 小さな石けんカタカタ鳴った」と切ない情景が紡(つむ)ぎ出されていく。この状況描写と哀しげな旋律との予定調和は日本中を共感の渦に巻き込み、「同棲」という当時の「現代用語」はたちまち市民権を獲得したのです。市丸(いちまる)姐さんだったら「猫も杓子(しゃくし)もチョイト同棲♪」と唄(うた)ったかもしれない。このネタ、すぐに意味が分かったヒトはきっと後期高齢者です。さもなくばクイズ好きのオタクに違いない。林修先生もビックリ。知的好奇心とヒマを持て余す「よゐこ」はネットで検索してみたまへ。ムダな知識の心地よさよ。これ雑学の神髄なり。

ichimaru市丸姐はんどすえ

ちなみに、1960年代後半から70年代前半ごろを境として、それまで多数派を占めた見合い結婚と恋愛結婚の割合が逆転しました。戦前の価値観の中で育った親の世代とは一線を画す、新しい生き方が模索されていました。ライフスタイルの転換期だったこの時代を追い風に、「当時としては」というより「当時だからこそ」刺激的だった上村の作品は評判を呼び、ついには映画化されることに(仲雅美、由美かおる主演:1973年、松竹)。テレビでも沢田研二と梶芽衣子の主演でドラマ化され(1973年、TBS)、若いカップルがイチャイチャするシーンが流れると、家族揃ってテレビを視聴しているお茶の間に、ぎこちない沈黙が流れたとか。これって親に隠れてコッソリ観るモンだろ。『11 PM』(1965年~1990年、NTV系列)とかと同じだろ。

あれから幾星霜(いくせいそう)。人びとの意識も生き方も大きく変わりました。

さて、ある朝のことです。夜勤明けにタワーマンションの新居へと戻る「かの」青年医師。35年ローンを組んだばかりです。この日「カレ」は異様な光景に遭遇します。玄関を開けしその刹那(せつな)、ただならぬ気配に歩を進むこと能(あた)はず。恐る恐る広き部屋をグルーリと見渡すに、此(こ)は奇怪(きっかい)、面妖(めんやう)なり。妖気さへも漂うその佇(たたず)まひ、いかなる妖怪変化の仕業ならむや。洗濯機、冷蔵庫に電子レンジ。大型テレビに最新のエアコン。高価なる家電は悉(ことごと)くその姿を消し、虚(うつ)ろにガランと静まりかへるリビングに、几帳(きちょう:カーテンのこと)の隙間より朝日差し込む。野狐(やこ)に取り憑(つ)かれけむや、視線を宙に泳がす「カレ」。盗人(ぬすっと)や入りけむ。ようせずは部屋を間違へけむや。頗る(すこぶる)怪異(けい)なり。愛(いと)しの「カノジョ」の姿も見当たらず。よし(理由)は分からねど、家電と共に消えにけり。『風と共に去りぬ』にはあらざれど、『家電と共に去りぬ』ならんとて世の耳目(じもく)を集めけり。

う~ん、今日はキレてる。渾身(こんしん)のオヤジギャグ講談風。他人(ヒト)の不幸は蜜の味。こんなときに使うコトバです。この悲喜劇を肴(さかな)に新宿の居酒屋で盛り上がったのも遠い昔。僅(わず)か数ヶ月前のことなのにね。あのお店、最近閉店したと聞きました。嗚呼(ああ)、ここにもコロナの爪痕(つめあと)が残る。

閑話休題。

口切(くちき)りの拙(つたない)いニホンゴは。。。実は中学英語の教科書を一部和訳した「翻訳文」でした。中学1年の4月ごろ、北は北海道から南は九州・沖縄に至るまで全国津々浦々、このヘンな日本語と格闘するおなじみの景色。既視感(きしかん)。筆者が中学生のころと変わりません。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」(鴨長明『方丈記』より)

紅顔の美少年、女の子にモテまくった筆者も、いまや面(ツラ)の皮の厚いオッサンになりました。「ウソつけっ、歴史の歪曲(わいきょく)だ、捏造(ねつぞう)だ!」とかつての同級生から怒声が飛んでくる気もするが、まあ死んだフリしとこう。ウソでも千回繰り返せば「真実」となるのです。某国の方々をごらんなさい。

ところで過ぎ来し方(すぎこしかた)、筆者が不思議に思ったことがひとつあります。日常の話しコトバで「カレ」「カノジョ」といえば、「特定の親しい異性のお友達」のこと。英語の boyfriend や girlfriend にほぼ相当します。単なる男友達、女友達ではありません。ケッコンして子作りしてもおかしくない男女の仲、特別なパートナーです。父親を「カレ」、母親を「カノジョ」と呼ぶのって、おかしくないかい?げにわりなし(現代語訳:本当に道理に合わない)。

職場ではエラそうにしてはるお父はん。でも家の中ではところかまわずオナラ炸裂、太田胃散をアテにビールを飲みはる。最近オナカも出てきた。ええトシしてな、若いコの前ではデレデレ、鼻の下を伸ばしてはる。ファミレスや回転寿司でな、お店の女のコが可愛いとホッペが緩みっぱなし、声のトーンもいつもとちゃうで。「猫ナデ声」ってやつや、アレ。エイゴやったら Sugar Daddy とでも呼ぶんでっしゃろか。お砂糖パパはん、ホンマにヘンやで。虫歯になりそうやわ。そう思わへん?ほんでな、アイドルにはやたらと詳しかったりするんやわ。乃木坂46「まいやん」(白石麻衣)の写真集、お母はんにナイショで買うたのウチ知ってるもん。趣味の釣りで使う、アイスボックスの中に隠してはるんや。こんなオッサンを「カレ」って呼びはる、パパ専のうら若き乙女(おとめ)はん、いてはるでっしゃろか。あれ?いつの間にか翻訳ソフト、ニセ関西弁バージョン稼働中。ヘタクソだって?まっ、細かいことは気にしない、気にしない。

お母はんは健康ランドの男性アイドル「純烈」と韓流ドラマにえらいご執心(しゅうしん)どす。テレビショッピングで衝動買いしはった美肌クリームをシワのミゾにセッセと塗りこんでいてはります。見事なその職人技、前世は左官屋はんに違いあらしまへん。完成するとゲゲゲの鬼太郎の名キャラクター、妖怪「ぬりかべ」参上どす。パックした顔面、パンダにしか見えへんねや。このオババが「カノジョ」?「コレでもな、昔は可愛かってんよ」とか云われてもな、そらワカラしまへん。古代遺跡から出土した土器のカケラを手に、壮麗なる古代文明へと思いを馳せる考古学者のセンセみたいな、狂おしいほどの、ヘンタイじみた妄想癖(へき)があらへんとだめどす。うっ、ダメどすっ、言語中枢が誤作動してきた。熱暴走どす。夏のせいでっしゃろか。ええかげんにしよし。イケズやわぁ~

ぷっしゅ~、フハッ!脳内スパコン『富岳』、ビールで冷却しました。再起動完了。

でもね、まあ聞いてくれ。中高から大学、さらには大学院へと進むうち、言語学や国語学という、コトバに関する学びを深めていった筆者の違和感はやがて飽くなき好奇心へと変わっていきました。「キモ~い」がいつしか「オモロ~い」に。コトバの世界の奥深さに魅せられ、新たな発見の快感に身を委ねていくうちに虜(とりこ)となりました。もう戻れない。語学オタクの誕生です。

さて、かつて我が国はアジア文化圏の覇者、中国から先進文化、技術を学んできました。周りを海に囲まれた日本にとって、ヒトの行き来が難しかった時代には「書籍を通じて外来文化を受容する」というカタチに必然性がありました。説得力がありました。明治新政府はこれに倣(なら)い、欧米から文化や科学技術を採り入れようとしたのです。近代国家建設のためには英独仏などの印欧(いんおう)諸語を学ばなくてはなりません。待ったなしです。

ここで印欧語について、ウンチクをひとつ。「印」はインド、「欧」はヨーロッパを表します。なぜインドとヨーロッパを並べるのか。これには深い理由(ワケ)があるのです。インドの古典語、サンスクリット語とギリシャ語、ラテン語との間には「偶然とは思えないほどの類似点」が認められ、そのため「両者は共通の祖語を持つ可能性」がある。ウィリアム・ジョーンズという人が指摘しました。比較言語学の誕生です。18世紀後半のことでした。インドとヨーロッパの諸言語をひとつのグループに括(くく)るのはこのためです。

ニンニクとタマネギ、ユリは仲間だって?チョコに入ってるあのアーモンドは「バラ科サクラ属」、サクラとは兄弟分らしい。確かに花を見るとソックリ、というより素人目(しろうとめ)には区別がつきません。それからナシもバラの親戚なんだってね。グイグイ来るなあ。アタマが混乱してきた。ガクモンの分類ってのは奇絶怪絶(きぜつかいぜつ)、奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)。わからんなっしー。

無数の蚕が桑の葉を食(は)んでいくように、私たちの祖先は貪欲に欧米の書籍を翻訳していきました。我が国には欽明天皇の御代から連綿と続く、漢学の伝統があります。その読み込みの正確さは本場中国の専門家ですら舌を巻くほど。その精神(スピリット)は明治以降も英学の巨人、齋藤秀三郎や独逸(ドイツ)語学の碩学(こうがく)、関口存男(つぐお)らに引き継がれ今日に至ります。ヤマトの語学者、「ストロング・スタイル」の系譜とでも云おうか。一介(いっかい)の語学オタクとして、筆者はこの先輩たちの心意気を誇りに思います。

外国語学習と真剣に向き合ったことのあるヒトなら誰もが経験するでしょう。母国語以外のコトバ、たとえば英語を日本語に翻訳しようとすると、なぜかシックリとしない、ある種の違和感を覚えることがあります。外国語と日本語との間には語彙や構文、発想などの点でしばしば越えがたいギャップがあるためです。幕末から明治初期の大先輩たちもハタと気づきました。

「なんと!英語の he や she、フランス語の il や elle にあたるコトバが日本語には見当たらないじゃないか!」

印欧語で三人称単数の代名詞、たとえば英語の he や she は「話し手(I・We)および聞き手 (You) 以外の、単数男性および女性」を指し示しているだけです。いわば無味無臭、他のニュアンスは感じられません。しかしながら、私たちの祖先が必要に迫られ、やむを得ず借用してきた日本語表現は「こそあど」コトバの仲間でした。当時は「コレ」「ソレ」「アレ」「ドレ」に加え、「カレ」という遠称(遠くの事物を指す)も使われていました。現代日本語では「かの悪名高きフリン男、渡部某」などの言い回しにその痕跡を留めるのみ。何か特殊な存在であることを仄(ほの)めかし、秘密のニオイがたちこめるコトバです。こんな性質を持つ語を he や she の訳語として転用したのです。

最初のうちは男女どちらも「カレ」で指していました。森鴎外の『舞姫』(1890年)では独逸留学生の太田と薄幸の美少女エリスとの邂逅(わくらば)が耽美(ちんび)的に描かれています。

「彼は料(はか)らぬ深き嘆きに遭(あ)ひて、前後を顧(かへり)みる遑(いとま)なく、こゝに立ちて泣くにや」(『舞姫』より)

ここで「彼」とはエリスのことです。女性です。はるな愛やマツコ・デラックスではありません。ダイアナ・エクストラバガンザ、 ナジャ・グランディーバでもありません。ましてや、ハイビスカス江なんてことは。。。チト専門的すぎるか。再選を果たした小池百合子東京都知事の会見でおなじみの「夜の街」関連、接待を伴う飲食店のお歴々です。セレブです。

男女同形、いわばユニセックスの「カレ」でしたが、さらに性別をハッキリ表すため「カレ」から派生したのが「カノジョ」という造語です。こうしてみると、日本語の「カレ」「カノジョ」はコトバとしてはかなり新しい、ということが分かると思います。また、これらの「ナンチャッテ代名詞」には「カレ」という日本語本来の、隠語(いんご)的な含みが纏(まと)わりついています。そこから「他のヒトとは違う、特定の異性のオトモダチ」という使い方が定着したのです。納得いくでしょう。腑(ふ)に落ちたでしょう。『外国語を知らない人は自国語についても無知である』という、ドイツの文豪ゲーテの格言がチョットだけ実感できたかな?

政府による緊急事態宣言が全国レベルで解除され、ついに「夜の街」関連、接待を伴う飲食店も次々と営業を再開しています。感染再拡大という揺り戻しにも「ワレ関セズ」とばかり、「かの」青年医師は職場近くの歌舞伎町やゴールデン街へと足を運んでいるようです。また歓楽街という、虚飾のブラックホールへと吸い込まれていく。懲りないヤツだね。午前2時を過ぎたころ、LINEの着信音が暗がりでけたたましく響きます。消音モードにしとけば良かった。夜中に起こすなよ(怒)。「雅(みやび)ちゃんサイコー!」だと。アホちゃうか。送られてきた写真に寝ぼけた視線を落とす筆者。美しい雌(め)ギツネが艶(あで)やかに微笑んでいます。百鬼夜行(ひゃっきやこう)の丑三つ時(うしみつどき)、「カレ」もどうやら新しい純愛(?)を見つけたようです。

「カレ」のマンションの家電一式、再び新品に入れ替わる日も近いでしょう。ふふふん。(by 柳浦)