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2015.06.19 学長コラム 第7回ぼくのこどもの、こどもの、こどもが会いにくるんだ

 内田麟太郎さんの絵本『おじいちゃんの木』(佼成出版社)は、とてもたいせつなことを私たちに届けてくれます。
 主人公は子猿のモンちゃんです。モンちゃんは「おじいちゃんの おじいちゃんの おじいちゃんに あいに いくんだよ」と、楽しげに歌いながら自転車をこいで行きます。
 イタチやハリネズミやアナグマは、「なに、おかしなことを言っているんだ」とうすら笑うように、「おじいちゃんの、おじいちゃんの、おじいちゃんなんて、いないもーん。そんなに ながいき しないもーん」などとからかいます。
 しかし、モンちゃんはまったく平気です。きこりんきこりんと丘を越え、山を越えて、心をはずませながら自転車を走らせて行くのです。
 「いったい、どこに行くのだろう」と気になってページをめくっていくと、「こんにちはー!」と挨拶する大きな声がします。相手はいったい誰でしょう。それは「おじいちゃんの、おじいちゃんの、おじいちゃん」ではありません。「おじいちゃんの、おじいちゃんの、おじいちゃん」が植えて、見上げるほど大きくなった一本の木でした。
 モンちゃんは、気持ちよさそうにその木にもたれて座りました。すると、「げんきで なによりだね」と、おじいちゃんの、おじいちゃんの、おじいちゃんがモンちゃんに話しかけてきました。

          §

 絵本を読み終わって、私はいろいろと想像をくりひろげました。
 モンちゃんは生まれて間もなく、お父さんにおぶわれたりお母さんに抱かれたりして、ここに連れて来られたのでしょう。それから、「この木はね、おじいちゃんの、おじいちゃんの、おじいちゃんが植えた木なんだよ。さわってごらん」などと言われて育ったのです。 ですから、一人で自転車に乗れるようになってからは、「おじいちゃんの、おじいちゃんの、おじいちゃん」に会いに行くことが、楽しみでならなくなりました。幹をだきしめて話しかけたり、生い茂る葉を見上げて話しかけたりして、ひとときを過ごすモンちゃんでした。
 モンちゃんのお父さんも、同じように育ちました。小さかったときに、お父さん(つまり、モンちゃんのおじいちゃん)に、「この木はね、おじいちゃんの、おじいちゃんの、おとうさんが植えた木なんだよ。りっぱな木だろう」と言われ、大人に育っていったのです。
 ですから、お父さんはモンちゃんが生まれると、モンちゃんに「あのね」と言って伝えたのでした。それは、モンちゃんのおじいちゃんも同じでした。小さい子どもであったとき、お父さんに「この木はね、・・・・・・」と教えられて大きくなったのです。
 「おじいちゃんの、おじいちゃんの、おじいちゃん」に会いに行くことを心から楽しみにするモンちゃんの《おおらかさ》は、こうして、バトンを繋ぐようにしてはぐくまれたものでした。
 さて、幼いころをこのように心ゆたかに過ごすと、子どもというのはどのように思いをふくらませることになるでしょう。「子どもの生きる世界」は洋々として果てしなくひろがり、しかも、夢のあるその「世界」には確かな手ごたえがある。そのことを私は内田さんに教えられました。
 絵本は、次のようにつづいていきます。
 「げんきで なによりだね」と、おじいちゃんの、おじいちゃんの、おじいちゃんに励まされたモンちゃんは、その日、こっそり木を植えて家に帰っていきました。
 「どうしたんだい?」とヤマバトが聞くと、「ぼくの こどもの こどもの こどもがね いつか あいに くるんだよ」とモンちゃんは答え、そうしたら「げんきで なによりだね」と言ってやるんだと話すのです。
 この言葉は、ずっと昔、モンちゃんが生まれるずっとずっと昔、「おじいちゃんの、おじいちゃんの、おじいちゃん」が一人つぶやいた言葉でもあったでしょう。

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 「別に私だけが特殊な力を持っていたわけではないんでっせ。昔から何代にもわたってこないして技術を受け継いできたもんやったんです。それが時代のなかで一つ一つ消えていったんですな。昔は林の木のように私のような職人がおったんです。それが一本ずつ枯れたり倒れたりして、気がついたら一人残されていたんですわ」
 このように述懐するのは、「法隆寺最後の宮大工棟梁」と言われた西岡常一さんです(『木のいのち 木のこころ(天)』(草思社)。
 西岡さんは、小学校に入る前のまだ5、6歳のころから、おじいさんの西岡常吉棟梁に仕事場に連れて行かれ、「そこへ座って、みんなの仕事を見とれ」と言われました。友達が遊ぶのをうらやましげに見ながら、大工仕事をじっと見つめて過ごす毎日でした。幼いながらに、あの人は釘を打つのがうまい、あの人はまた釘を曲げよったと、目を肥やしていく西岡少年です。
 西岡さんは、おじいさんの勧めで農学校に進学し、土壌や林業について学ぶことになりました。夕飯が済んで按摩していると、法隆寺大工というのはこうやったとか、先祖はこういう人やったとか祖父に教わって過ごしました。
 西岡さんは先の文章につづけて、再建した薬師寺西塔等について次のように述べます。
 「100年、200年たって、私らがやった塔や堂がどうなっていますか。そのことを考えてやったつもりやけど、どうなっていますか、見たい気がしますな。300年後に自分の造った西塔が東塔と並んで建っていたら、『よくやった』というて初めて安心できますがな」
 法隆寺は世界最古の現存する木造建築です。創建されてからの1300年間、平安・鎌倉・南北朝・室町・江戸・昭和と何度か大修理や復元が施され、今も私たちの目の前に美しく立っています。
 数えきれないほど多くの工匠や工人が、その修理や復元の事業にたずさわって今日まできたのですが、西岡さんは「わたしは、その中で、どの時代のだれよりも『一番の幸せ者』や」と思い、「えがたい喜び」にひたっています。
 なぜなら、「法隆寺を支えてきた1300年前のヒノキが、一本一本、それぞれの個性豊かに、いまなお生き続けている姿と、そのわけを、解体修理を通して、しっかり受けとめることができ」たからです。また、「各時代の先人たちの心をこめた技の手形、仕事ぶりを、自分の目で見て、手に取り、それらを体得できた」からでもあります(『法隆寺を支えた木』NHKブックス)。

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 私たちは、せかせかせかせかと毎日を過ごしています。政財界のトップの人やテレビで引っ張りだこのタレントなどは、分刻み秒刻みで過ごし、寝る時間も十分に取れないと誇らしげに語ります。そういうタレントたちにあこがれ、自分もそうなりたいと願望する若者も少なくありません。
 しかし、西岡棟梁の携えている時計は、まったく異なる《時の流れ》を刻んでいます。10年、100年単位で刻む時計で世の移ろいをながめ、遠い先人と語り合って生きているのです。
 棟梁は述べます。「1300年前に法隆寺を建てた飛鳥の工人の技術に私らは追いつけないでっせ。飛鳥の人たちはよく考え、木を生かして使っていますわ。(中略)木の癖を見抜き、それを使うことができ、そのうえ日本の風土をよく理解し、それに耐える建造物を造っているんですからな」
 私は西岡さんに「法隆寺の部位から抜いたクギが、まだ1000年はもつ」と教えられ、とても驚きました。外側はたしかに錆びていますが、そのクギは日本刀をつくるときと同じに何回も何回も折り返し叩かれてクギになっているからでした。
 1300年前に切り出された法隆寺のヒノキに鉋をかけると、今でもいい香りがすると言います。これも驚きです。生まれもった香りを失うことなく、精気を保ちつづけることはどうしてできるのでしょう。
 「こどもの、こどもの、こども」が自分の植えた木に会いに来たならば、「げんきで、なによりだね」と声をかけたいと語るモンちゃんは、「300年後に西塔が東塔と並んで建っていたならば、『よくやった』と言ってあげたい」と語る西岡棟梁と、どこか似てはいないでしょうか。

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