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2015.06.19 学長コラム 第3回生きる力が「仏様の指」ではぐくまれる瞬間

 大村はまさんの『教えるということ』(共文社)は1973年に出版され、教師や教師を目ざす学生たちに読みつがれています。中学校の国語教師として大村さんが実践した「創意に満ちた授業」や教師としての仕事は、私たちに多くの示唆を与えてくれます。
 私は今から30年ほど前、大学教師になったころに同書を読みましたが、その中の「仏様の指」と題された一文は、深く心に染みわたりました。
 高校教師であった戦時中のことです。大村さんは毎週木曜日、奥田正造先生の読書会に参加していました。「どうだ、大村さんは生徒に好かれているか」と尋ねられ、いろいろと考えて「嫌われてはいません」と変な返事をしてしまいました。そのとき、奥田先生は「そう遠慮しなくてもいい、きっと好かれているだろう。学校中に慕われているに違いない」と言って、次のように話し出したのです。
 《あるとき、仏様が道ばたに立っていらっしゃった。すると、一人の男が荷物をいっぱいに積んだ車を引いて通りかかった。しかし、大変なぬかるみにはまってしまい、懸命に引いても車は動かない。汗びっしょりになって男は苦しんでいた。
 その様子をしばらく見ていらっしゃった仏様は、ちょっと指でその車におふれになった。その瞬間、車はすっとぬかるみから抜けて、からからと男は引いていった。》
 奥田先生はこのように話して、「こういうのがほんとうの一級の教師なんだ。男はみ仏の指の力にあずかったことを永遠に知らない。自分が努力して、ついに引き得たという自信と喜びとで、その車を引いていったのだ」と語りました。
 大村はまさんは述べます。「もしその仏様のお力によってその車がひき抜けたことを男が知ったら、男は仏様にひざまずいて感謝したでしょう。けれども、それでは男の一人で生きていく力、生きぬく力は、何分の一かに減っただろうと思いました」
 感銘深い話です。私は毎年、この一文を「教えるということ・学ぶということ」と題した「教育方法」の授業の中で紹介します。
 授業といういとなみの核にあるのは「子どもが教材を学ぶ」ことで、教材に向き合って、格闘する子どもを見守りながら、気づかれることのないようにそっと指を添え、「自分の力」で教材をものにさせていく。それが「ほんとうの一級の教師」だと、私も思うからです。
 ところで、教師を志す学生は、どのような教師像をいだいているでしょう。それは例えば、子どもたちにいつも注目されながら、教室の中心にデンと構える教師であったり、子どもたちに次々と知識を伝達し、それを覚えたかどうか、高みから評価していく教師であったりします。「仏様の指」の話はそのような教師像を根底から崩し去り、新たな教師像の追究を学生に促すことになります。
 「『学んだこと』はいつまでも、自分の中に残るものです。そしてそれは、自分の大きな宝物になると思います。私もいつか、子ども達に宝物をこっそり心の中にあげられる教師になりたいです」と、授業の感想を率直に述べる学生がいます。

          §

 「仏様の指」と題するこの話では、ぬかるみから車がすっと抜け出て、からからと引いていけるようになったのは、仏様がちょっと指でおふれになったからです。しかし、もしかすると、実際はそうではなかったかもしれません。つまり、仏様は見るに見かねておふれになろうとしたのですが、指がふれるかふれないかのその間際に、男は「自分の力」で車をからからと引いていったのかもしれないのです。
 そう考えたい根拠はいくつもあります。例えば逆上がりのできなかった学生Aは、できるようになったときのことを次のように伝えます。
 《私が小学生のころ、逆上がりがなかなかできなくて、自分なりに一生懸命考えながら練習していた時、先生がふと後ろから背中を押してくれました。色々アドバイスをして、手本を見せてくれたりしました。「あとちょっと、ガンバレ」と毎回、声をかけながら、背中を押してくれました。
 その時、私の頭の中では、先生が背中を押してくれるから、逆上がりができるようになると思っていました。けれど、ふとした時、先生がわざと背中を押すふりだけして、声だけをかけていた時、自然と逆上がりができました。初めは信じられなかったのですが、何回かやるうちに一人でもできるようになりました。
 「先生のおかげです。ありがとうございます」と述べると、先生は「私は何もしていないよ。最後は自分の力で上がれたんだよ」と言って、「自信を持って」と励ましてくれました。》
 また、学生Bは自転車の補助輪を初めて外して乗ったときのことを、次のように述べます。《私の兄が、後ろから自転車を支えてくれていました。支えてくれているものだと思って、自転車をこいでいたとき、後ろを見てみると、支えている手がなく、一人で自転車に乗れるようになっていました。》
 この指摘を読んだとき、私は、私にもあった同じような体験をありありと思い出しました。買ってもらった子ども用自転車に乗りたくて、道で練習していた低学年のときです。倒れないように、叔父が後部をしっかり支えてくれていました。私はペダルを踏んでよろよろと漕ぎ出すのですが、バランスを崩してすぐに足を着いてしまいます。転んで擦りむいたこともありました。
 「その調子、もう少し」などと声をかけられて、ペダルを踏んでいたようにも記憶します。何度もやり直してしばらく漕いでいると、私は思いも寄らず先へ先へと進んで行けたので、それまで味わったことのない"感触"を感じて、自転車に乗りつづけました。
 「叔父が着いて来てくれてるんだ」とありがたく思って、気持ちよく漕いでいたのです。ところが、叔父の声がだんだん遠のいて聞こえていることに、はたと気づかされました。 自分一人でハンドルを握り、バランスを取りながら自転車を漕いでいる。叔父の力を借りることなく自転車を漕いできている。この事実を知ると、私は急に怖くなって、ブレーキをかけて止まりました。
 ふりかえってみると、信じられないくらい遠くに叔父は立って見ていました。

          §

 あのとき、仏様は男の車に指でちょっとおふれになったのでしょう。しかし、男はみ仏の力にあずかったことを永遠に知りません。「ついに引き得たという自信と喜び」をかみしめた男は、その後、荷車が同じようなぬかるみにはまることがあっても、また考えもしなかった窮地に立ち至ることがあっても、何とかその局面を打開しようと、力をふりしぼって生きていこうと努めました。そうであったにちがいありません。
 授業の中で子どもたちは、教師の「仏様の指」にさりげなく背中を押されながら、教材をものにしていきます。それは、逆上がりができるとか自転車が漕げるようになるといった実技面のことに限られません。
 文学教材を読む場合にも、社会や自然についての認識を深める場合にも、あるいはまた、算数の計算などを解く場合にも、教師のちょっとした問いかけや働きかけによって知的な展望がいつの間にかひらかれて、子どもたちは教材をしっかりと自分のものにしていくものです。
 子どもや学生が「自分の力」を出し切って教材を深く学びとったとき、私は心からそのことを称える教師でありたいと思います。

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